2019年4月号(622号) 600回のありがとう
2019-04-01
オススメ
2019年4月号(622号)
600回のありがとう
学園長 吉野 恭治
春に揺れるこころ
「泉」は若葉学習会の学校報として先月621号を発行した。この間に私は一回2900字の随想を600回以上書いたことになる。我ながら長い間よくペンを投げ出さずに書き続けたものだと思っている。
1回2500字として400字詰め原稿用紙で4500枚になったように思う。
この600編に及ぶ随想の中から約200編を収録した5冊を、自費出版として作成した。80歳を超えた今、60年の連載に終止符を打ちたいと思っている。
60年の随想の中で、自分が今でも納得のゆくものはやはり人との往来である。その出会いの心情は今もほとんど変わらない。
30年ほど前に書いたものだが、当時私の文以上に素晴らしい封書の感想文をお送りいただいた。生徒のお母さんからのものだったが、30年間保存し続けた。そのお母さんも先日90歳で他界された。
その折のタイトルは「桜さくころ」。ここに抜粋文を掲載して、60年のペンを置く。
「桜さくころ」
春のゆらぎのようなものが、風の中に萌えるのがわかる気がする。「季節の気配」という自然のディレクターの演出の細やかさは、時勢の人の思いも超えて、さまざまに鮮やかである。春が来るのがよくわかる。
しかし人の心の匂いも色も、それにくらべるとずいぶんと複雑で、とてもそれを嗅ぎわけることはできない。
人の心は季節のようなくり返しのパターンももたないし、「愛する時」「憎む時」「悲しむ時」「憩う時」の間にさだまった脈略もない。その変わり方は速くもあり、緩やかでもあり、時に哀しくさえある。
人を愛することは、その人の心の色を愛することとは違うから、心の色に染まりきれない時、人はその人から去ることになる。そういう人と人のかかわり合いは、自然の織りなすせん細なハーモニーとは違って、更に深くこまやかな気くばりに支えられているとしかいいようがない。
年齢の割には多いのか少ないのかわからないが、二十組近い仲人を経験した。その経緯もそれこそさまざまである。
父の知人の子息であったり、教え子であったり、「若葉」の教員であったりする。ほんとうにはじめて逢う日からを知りあっているものあり、迷いながら嫁ぐものあり、熱く燃えてしまっているカップルあり、永すぎる春組もある。
その時が再婚のものあり、今が当時より幸せそうな人たちもあり、いくたびか危機のあった組み合わせ、すでに清算の終わった組もある。そのさまざまの人間模様に、時折深い感慨に襲われたりすることがある。
人の心がかわらぬ情熱を持ちつづけられるとは思えない。愛し合ったもの同士の想いが歳月を経てもかわらぬなどということはないといっていいだろう。
むしろかわるからこそ人間らしくもある。
だから会社や世間との人との交わりに、傷跡を残すようなやりとりがあるのも当然で、夫婦の間にもこれと同じ感情の流れがあるようである。
今日の日に破局を迎えるのかと思わせるようなやりとりがある。ハラハラして見ているが、いつの間にかもとの状態に戻っている。
その原因が、人間として許せないだろう思うような場合でさえ、許してしまう例に幾たびか出会った。
信頼というものさえも、すべてくつがえされてさえ、人は傷だらけでも捨てられない生活というものがあるようだ。そのあり方に、啞然とする時もある。そして人の心とは実は意外といい加減なものだと思えてならない。
そして、そのいい加減さが、人を救うのだともいえる。一つ一つの出来事を、究極まで追いつめて結論を出さねばならぬような生き方が、決していつも幸せな結論を生み出すとはいえないといっていい。
一つの例があった。
子供もあり、家庭もあり、生活もあった。ところが夫の裏切りが、愛人の妊娠という形で妻へ突きつけられた。
ささやかな家庭は大騒動となった。いくたびかの話し合いももはや無駄と思えた。
しかし思えたのはとりまきの者たちで、当人同士では和解が成り立っていた。何もかものみこんで許した妻のあり方が、今となっては幸福な一族図を作り得ている。
もう一つの例がある。
自分の意志や考え方の間に入り込んでくる妻の考え方を、わがままとしか理解できない夫があった。
妻としては自分の生活のエリアを守りつづけようとした。夫はそれが許せない。結果は夫婦としての生活の清算となった。
しかしその互いに自分に忠実な生き方が、今決して、二人のそれぞれに幸せをもたらしているとはいえない。人生へのみつめ方のきびしさが、いつも幸福につながりはしない。
人の心は、だからいい加減でいいのだと思う。その日その日でゆれ動いて、動きながらの考えが幸せであることの基本でさえある。
そのことで人を責めたり批判したりはできない。
考えてみると、自分も自分なりに、人に裏切られたとしかいえないような状態をいくたびも体験した。自分に注がれる気くばりも愛情も越えて、人は平気でそむくものだと思う日もあった。
しかし、改めて考えてみれば、それだからこそその人も自分なりの道を歩めるのであり、それでいいのだとも思える。
かたくなな想いも、まっすぐな人間らしい一途さも、人を幸せにする条件とはいえない。
時の流れの中で、人も出来事も、許せたりあきらめたりできる器量こそが、自分を幸せにするものだといえよう。
披露宴の席に招かれることが多い。その席で出てくるスピーチもほとんど同じである。
型破りがいいとはいえないが、新郎新婦の緊張と、実はうわの空の心にむかって、くどくどと人生論を説くのは愚である。
あれらの輪のまま生きたら、間違いなく幸せにはなれないと思えるのである。
桜咲く頃はいい。心もなにかはなやいで、また一年を越えて生きてきたほっとする想いをかみしめる。
やわらかな雨も、夕ぐれの甘さも春ならではある。
満開の桜の花びらの小さなピンクの一枚一枚が、季節の中に輝くように見える。
忘れてしまえばいい、あきらめてしまえばいい、そう思うと春の想いはやすらかだ。
よくいう「春宵」という時間は、「春傷」という心のあり方のひとときかもしれない。
(1987年4月)
600回のありがとう
次の月は「何を書こうか」とか、「先月はあれも書けばよかった」とか、そのような思案や反省をこれからは月例行事のように繰り返さなくてもいいと思うことで、随分と気分的に救われる。
多くの小中学校や高校にも毎月送らせていただいたが、来月からは単なる学校内のニュースの広報紙となるので、この月の「泉」で送付を最後とさせていただく。
今年はゆったりと春を送る。多謝。