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2018年9月号(615号) スポーツを愛する全ての人へ
2018-08-31
 
2018年9月号(615号)
 
シャペコエンセが教える
  ~スポーツを愛する全ての人へ~
 
        学園長 吉野 恭治
 
 ブラジル南部のサンタカタリーナ州、田舎町であるシャペコにはアマチュアのサッカーチームしかなかった。この町に1973年、はじめてのプロチーム「シャペコエンセ」がうまれた。地元の熱い声援がなければ、チームそのものが存在しえなかった。継続しえなかったのである。人口21万人、地方都市でのプロサッカーチームの活躍は、しかし次第に熱い注目を浴びるようになった。
 
 ブラジルの他のスタジアムではありえないほど赤ん坊や子供たちまでがホームゲームの声援に駆け付けた。そして幼い人たちはチームとともに成長してきた。リオデジャネイロ在住のスポーツジャーナリスト藤原清美さんはこんなことを述べている。「市民の人たちが、GKコーチが僕たちのバーベキューに参加してくれたとか、子供が同年代の選手が多いから幼稚園や学校のイベントでいつも一緒だったとか、街やレストランで出会うといつも選手たちと談笑したなど、シャペコエンセの選手たちはこの町の市民に溶け込んでいた」という。
 
 シャペコエンセの戦績はそう簡単に伸びなかった。しかし市民の熱い声援を受けながら、次第にその芽を表したというべきだろう。

1977年 州リーグのサンタカタリーナ選手権で優勝。
2009年 ブラジル全国選手権セリエDに参加。3位。
2010年 ブラジル全国選手権セリエCに昇格。
2013年 ブラジル全国選手権セリエBに昇格。2位。
2014年 ブラジル全国選手権セリエAに昇格。

 ここまででチーム結成から40年たっている。そして2016年、ついに「コパ・スダメリカーナ2016」の決勝進出を決めた。それははじめての国際タイトルでもあった。町中が歓喜に沸いた。決勝戦はコロンビアの対戦相手アトレティコ・ナシオナルとだった。ブラジルのサッカーチームはほとんどが豊かな財政力を有してはいない。シャペコエンセもまた同じで、チームの移動には安い費用でできるチャーター機を利用した。ラミア航空だった。2016年11月28日、ボリビアのビルビル国際空港からコロンビアのコルトバ国際空港に向かっていたのがラミア航空2933便だった。ラミア航空のアブロRJ型飛行機は航続運行距離が2965キロ。2空港の距離は2972キロ、コルトバ空港の南80キロの地点で21:40過ぎ、燃料漏れの他の航空機の緊急着陸のため、空中待機を命じられ、旋回するうちに燃料切れになったのではないかとのちの調査で言われた。

 22:15ごろに燃料切れを訴えて墜落した。コルトバ空港から南へわずか17キロだった。当夜この飛行機の乗客は68名、乗員は9名だった。合計77名が乗っていた。墜落地点はウニオンの山中だった。不幸なある意味人為的な事故であったが、奇跡的に6名の生存者があった。記者1名、乗組員1名、技術者1名、それに選手3名。もちろん生存していたというだけで重傷の者が多かった。監督カイオ・ジュニオールをはじめとし、19名の選手を失った。多くのクラブ関係者も同乗していた。当然犠牲者は71名、シャペコの町は悲嘆にくれ、世界中が哀悼の意を表した。6名の生存者があったことは、燃料切れだったため火災を起こさなかったからだともいわれている。

 決勝戦は当然行われなかった。対戦相手アトレティコ・ナシオナルは事故翌日公式のサイトで「コパ・スダメリカーナ2016の優勝をシャペコエンセに譲る」と公式サイトで発表した。12月1日、決勝戦の行われる予定だったその日、試合の行われる予定のスタジアムで追悼集会が行われた。シャペコエンセにとっては他国での追悼集会だったが、相手チームのアトレティコ・ナシオナルのサポーターを中心に実に10万人が駆けつけた。こうしたスポーツマンやサッカーを愛する世界中の人たちに比べて、最近の日本のアメフトやボクシング、レスリングはおかしくはないか。辞任の仕方も潔く思えない。
 
 アトレティコ・ナシオナルの申し出を受けて、南米サッカー連盟は「2016年の優勝チームをシャペコエンセに決定する」と発表し、スダメリカーナ2016のトロフィーと賞金が贈られた。それだけではない。優勝を譲った相手チームのアトレティコ・ナシオナルにもフェアプレイ賞と賞金が贈られた。聞くものにすがすがしいある種の感動を与える。試合の判定結果が会長の意思に左右されるなどという出来事が、「弁明さえ聞きたくない」と思わせるのである。
 
 ラミア航空は多くの支払うべき補償金の目途もたたず倒産したが、その事故機が墜落したときに、キーパーだったダニーロはまだ生きていた。当時31歳、インデペンディエンテ戦では4本のPKをセーブ、続くサンロレンソ戦ではセーブの結果、チームを優勝に導いた。墜落直後彼は生存しており、最後に妻に電話している。妻のレティシアは「夫の最後の言葉は、『何があろうと愛してる』だった」と語っている。小さな息子を残して他界したダニーロにブラジルが泣いた。
 
 生き残った選手は3名。ジャクソン・フォルマン、アラン・ルシェウ、サンピエール・ネト。分けてもフォルマンは片足を切断、生涯サッカーへの復帰はない。しかし彼は今は国際親善大使として活躍し、車いすでサッカーを楽しみ、かつてのチームの活躍に協力を惜しまない。
 
 厳しいリハビリからルシェウはすでにサッカーに復帰している。ネトも続けて復帰の予定である。
 
 こうした時代である。誰かがスマホで撮影したのか、あの日の機内の様子が残されている。そしてあの瞬間からシャペコエンセの再建に歩み出すチームの苦悩を描いた実写版の映画がある。主人公に片足を失ったフォルマンが置かれ、ナマの映像でチーム再興を語る。「わがチーム、墜落事故からの復活」。いい作品に仕上がっている。機会あれば見てほしい。
フォルマンの言葉が素晴らしい。
 
 「こういう機会を授けてくれた神に感謝している。もう一度生きるチャンスを与えてくれたことに深く感謝しているよ。1日1日を大切にしたいと思っている。私を成長させてくれるすべての人たちの助けになりたいと思っている。それが我々生き残った者たちがすべきことだと思う」
 
 2017年、事故から8か月、リオデジャネイロで元気な男の子が誕生した。特徴のある大きな目と丸い鼻は父親にそっくりだった。父の名はヴィエイラ。ストライカーとしてチームに貢献した。11月20日、亡くなる1週間前にミドルシュートを叩き込んだのが、生涯最後の得点だった。享年22歳。ヴィエイラの妻は「これほど愛しいプレゼントを下さった神に感謝します」という。しかしこの子が生まれる8か月も前に父親は旅立った。この子が父親の手に抱かれることは生涯ないのである。
 
 
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