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2018年8月号(614号) 「家庭画報」が描く別世界
2018-07-28
2018年8月号(614号)
 

「家庭画報」が描く別世界
~手が届かないモノを夢と呼ぶのか~
 
        学園長 吉野 恭治
 
 
 「家庭画報」という雑誌がある。かなりの大判の月刊誌で350ページもある。重くて持ち歩きはつらいが、ちょっとしゃれた医院の待合室や、美容室に置かれている。この本に驚くのはその美しい写真と、ほとんどがカラーページであるという。壮観である。どのページを開いてもただただ美しい。広告でさえもため息ものである。この雑誌をご覧になったことがなければ、一冊買われればよくわかる。定価1350円、しばし桃源郷にいるかのような想いにさせてくれる。
 
 主な内容はまずファッション、アクセサリーの紹介。次に観光地や、有名店のレストランの料理を美しい写真で紹介、さらに魅力にあふれた国内や海外の旅行の案内、ため息の出るような豪邸の訪問、この上もなく優雅で快適な極上ホテルの体験など、そこで展開するのは女性たちの「この世の夢」である。
 
 ブルネロクチネリはイタリアのニットブランドである。世界的に名高いが、着心地も満点。カシミアの製品などは羨望の手触りである。このクチネリの新作が紹介された「家庭画報」4月号では、カーディガン37万5000円。ジャケット27万6000円、ドレス32万3000円、セーターは18万2000円。この程度の出費は「家庭画報」のファッションではそれほどではない。宮沢りえがモデルをつとめるシャネルの新作はさらに高価である。
 
 男性のファッションも世の奥様方に紹介されている。「家庭画報」の同じく4月号だ。中井貴一がモデルで着ているフェラガモのブルゾンは73万円、将棋の佐藤天彦がモデルで締めているフェンディのベルトは5万9000円、竹内涼真がモデルとして着て見せたルイヴィトンのジャケットは36万3000円、プラダのブルゾンは16万7000円。驚くのはソックスが2万3000円もする。さらに高橋一生がモデルをつとめるグッチのシャツは13万円、ディオールのTシャツは5万2000円、パンツ9万7000円と続く。
 
 驚くのはまだ早いかもしれない。ブルガリの装身具が小雪をモデルに紹介されているが、彼女が身に着けている1枚のブルガリ紹介の写真で、ネックレス5124万円、イヤリング419万円、腕時計6098万円、ついでにドレス65万円と紹介されている。
 
 旅の案内も毎月、行き先や趣向を凝らして華やかだ。最新号では尾道・広島の3泊4日の旅の参加者が募集されている。2007年に大幅なリニューアルを終えて、各室に展望風呂と吹き抜けのベッドルームを備えたホテル「ベラビスタ」に1泊。ホテルの真下からクルーズへ出航して2日間の船旅。「ガンツウ」と呼ばれるクルーズ船は、客室のベッドからガラス越しの瀬戸内海を満喫できる。宮島や大三島の下船観光もある。10月に実施されるこのツアー、まるで日本旅館にいるような船内で体験するクルーズはさぞかしすごいと思うが、参加費用は福山集合で平均1名110万円、1日37万円になる。
 
 ホテルに目を転じるとここにも「家庭画報」らしい世界が広がる。世界でもっとも旅人の旅情を慰めるのはリッツとかペニンシュラとかのチェーンではなく、アマンという名のホテルではないか。現在世界に33のホテルを持つリゾート展開のホテルグループである。私もプーケットやバリ島でアマンを見かけたし、食事だけなら行ったことがある。ホテルの安いタイで、プーケットのアマンプリの1泊は、ヴィラで1万4000ドルもする。東京にあるアマン東京は最低でルームチャージが1泊9万円。このアマンのホテルの紹介を「家庭画報」は創業30周年として、別冊付録で作成した。オールカラーで70ページ。世界中の雑誌で、「アマン」だけの別冊を作ったのは「家庭画報」だけではないのか。
 
 そして7月号の特集は「極上のホテル」である。ここでもきらびやかなホテルライフが紹介される。まず東京は帝国ホテル、レストラン「レセゾン」。4名1組でシェフ、ソムリエ、ウエイターキャプテンが専任でつき、ディナーを楽しむのは17万円。リッツ・カールトンの個室レストラン「ラ・ベ」で2名でのディナーは8万7000円。東京フォーシーズンホテルでは4名以上ならディナー1名2万円、ここまで来てやっと「いつかは行けるか」というレベルになる。毎月毎月こうしたレベルの紹介が続くのが「家庭画報」である。出てくるものはため息ばかり。決してわが身がふがいないとは思わない。それがなぜかというと、すべてが別世界という認識で読めるからである。ここには「夢」しかないが、その「夢」にはどれも手が届かない。我々庶民はもう少し価格の低いもの、例えば15000円のブラウスとか、8000円のネクタイだと真剣に迷い、真剣に「夢」を見るかもしれない。しかし2万3000円のソックスには迷わないし、ひとり2万円のディナーに行きたいと考えたりしない。それは「夢見る」という次元とは違う、異次元の封印された「夢」のなかにあるものだからである。
 
 「家庭画報」は絢爛豪華、美味求心の世界をのぞかせてくれるだけである。「こんなものがあります」という事実を教えてくれるだけである。どこまで行っても手の届くはずのないものを、果たして「夢」と呼んでいいものだろうか。
 
 以前ローマの街の散策中に、とあるアクセサリーや小物の店を見つけて、お土産も込めていくつかを買い求めた。大半が5000円以下だった。路地から大通りに出ると、日本人の若い2人の女性連れが、私の紙袋を指さしてこう言った。「この店どこにありました?」私は不覚にも今出てきた路地もはっきり覚えていなかった。紙袋には「FURLA」とあった。「フルラ」である。やっとそれらしきかすかな見覚えで道を伝えた。その頃「フルラ」なんて知られていなかったのである。しかしそのふたりの女性は日本で「きっと買おう」と決めて「フルラ」を探したと思う。娘ふたりが描いたのは「フルラを買いたい」という「夢」だったろうが、「FURLA」の店舗が探せなかったのだろう。彼女らは手にカタログか雑誌の切り抜きを握りしめていた。そのいくつかをここで求めることができたのではないか。そうした自分の足で求められる「夢」こそが、実は「夢」の本物ではないのか。
 
 若かった頃、私は「マレリー」の靴が欲しかった。それは私なりの「夢」だった。今デパートで見ればどれほどの高価なものでもない。しかしそうした靴にあこがれて、夢見て、のちに手に入れたときの喜びを思い出すとそんな頃の自分が好きだ。
 
 「家庭画報」はこれからも「夢」を語り続けるだろう。しかしほんとうの「夢」はいつか手の届くものをいうべきだと思う。50万円のシャネルのバッグをさげて歩く人より、汗をかきながら「ビックロ」の赤い袋を下げて歩く人の方が、幸せをみる「夢」がきっと多いだろう。「夢」とはいつかは叶うものをいうべきである。
 
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