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2018年7月号(613号) 平成の言葉に棘がある~ビラが教える現代~
2018-06-30
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2018年7月号(613号)
 

平成の言葉に棘がある

~ビラが教える現代~
 
        学園長 吉野 恭治
 
 昭和の時代、映画館は街の賑わいの中心だった。映画は娯楽の頂点にあり、映画そのものが黄金時代を迎えていた。その頃は「今、どんな映画をやっているのか」ということを知るには、ホームページのない時代、街なかの民家のガラス戸に貼られたポスターか、新聞の広告くらいしかなかった。半纏(はんてん)を着た「おじさん」が、脇に多くのポスターを折りたたんで、定期的に民家を巡った。道行く人が足を止めて「新作のポスター」を見る。いかにも昭和らしい優しさが街にあふれていた。その頃、新聞広告も楽しかった。みんなよく新聞を見たし、地方紙は市民情報の基本ともいえた。

 その頃、映画館は大体午後10時に新作の上映の最終回を終えた。その時間に映画館の灯が消えると、街は華やぎを失った。それが夏の夜だと全く違った。午後10時からさらにもう1回の、今度は旧作の上映がある。たしか30円程度の入場料で、「ナイトショー」と呼ばれた。クーラーなんてない蒸し暑い夏の夜、軽装で出かける「ナイトショー」は人気だった。喫茶店でかき氷を食べて映画館の前に並ぶのである。その頃、倉吉の映画館が新作映画の「番組告知」の広告を出した。自分の映画館は「ナイトショー」はやっていないという告知も併せて掲載したのである。何年たった今でも、その小さな広告を忘れない。「夜は寝るもの、ナイトはやらない!」とあった。この「夜は寝るもの!」に思わず笑ったものである。昭和の広告にはどこか「やさしさ」があった。今、新築の家の明かりのきれいなリビングで、にこやかにほほ笑む家族の姿のテレビCMがある。そうしたものがいかにも「つくられたやさしさ」に思えてならない。「夜は寝るもの!」と啖呵のように書く昭和人の威勢のよさに完敗している。
 
 昨年の夏、新宿の靖国通りを歩いていたら、とある大衆食堂の玄関先に1枚の告知が貼られていた。「何かを食べてくださいの意味ではありません。何も食べなくていいです。冷たい水、冷やしております。たった一杯の水でよければ、どうぞ気軽にお飲みください」とあって、私は飲まなかったが、その気持ちに清涼感を覚えた。新宿は行き交う人に親しみを覚えるような街ではない。派手でどぎつい看板が街じゅうにあふれている。その中でこうしたポスターに出会うのは、ほんとうに珍しい。旧コマ劇場の前の大通りのウインドウのガラスが割れていた。紙を貼って応急処置をしてある。その横に1枚のビラがあった。「ガラスを割られました。費用がかかります。皆さん、どんどん来てください」この商魂にもあきれながらも、どこかほほえましさを感じた。しかし平成の世のポスターやビラの告知は、やさしさや笑みを感じるものは本当に少ない。写真の右から2枚は東京の赤坂で撮った。「シャッターの前に自転車を置かないで下さい。」までは普通だが、「自分の店の前にどうぞ」は棘のような感情を含んでいる。同じ人の手になるもう一枚のビラも同様である。「ここにゴミを出さないで下さい。」までは特別とは感じないが、「自分の店の前に出してください」という指示も棘っぽい。もしこうした表現を読んでも、何の気も起らないのなら、「平成」という時代のどぎつい排他的な表現に、しっかり慣れてしまったとも言えるのではないか。慣らされてしまったというべきか。いちばん左の写真も赤坂地内で撮ったものだ。自分の使用区域内にオートバイの無断駐車を戒める貼紙である。「ここに勝手にオートバイ、自転車を止めるとチェーンロックします」とある。よく見かける「無断駐車は1万円」という脅しと似通っている。ただそのあとに「私の呪いでパンクやエンストをしてもしりません」とあるのはいささかに行き過ぎを感じる。読んだ後はすぐに笑いも浮かぶが、それを書いた人の「心の貧しさ」のようなものに思い当たると暗くなる。この同じ通りに以前「おにぎり屋」があった。何十通りかのおにぎりが楽しくてよく買い求めた。若い夫婦が経営する店だった。ある時この店の前に1枚のビラが貼られた。「私たちは嫌がらせをされるあなたが誰であるか見当がついています。これ以上続けられると警察の手に委ねます」とあり、近所から受けた仕打ちへの恨みのようだった。しかし通るたびにビラの枚数が増え、ついにはガラス戸一面となった。なにか「おにぎりを買う雰囲気」ではなくなったのである。やがてその店は「空き家」となり、その後壊されて空き地となった。若い夫婦と怨念のような文面が一致しないが、強い排斥の文面は印象が強烈だった。

 私が最近「どうなんだろう」と迷う表現がある。「借家あります」という2種の「お知らせ」は、米子の街の全く離れた場所でそれぞれを撮った。これは広告主が貸す家を持っているのだと思う。すると「貸家あります」ではないのだろうか。「借家あります」の「借家」は家を借りる人の立場の言葉ではないのかと思ったりする。たしかに「ここに貸す家があります」という意味だろうが、いつからかこの言葉も市民権を得ているようである。

 昭和の遠いころ、本通り商店街から旧明道小学校に抜ける道にテント張りの見世物小屋が来たことがある。驚いたことに「入場無料」とある。見世物は「上半身は人間、下半身は蛇」だという怪し気なものだった。入場は無料だったが、「出場料」が要った。言葉は便利だ。
 
 先日、湯梨浜の道の駅で出会った車。車のドアから車体へ一面のイラスト。私はとても楽しかった。こんなだれとも利害関係をもたない「告知」や「広報」もある。
 
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