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2017年10月号(604号) 「泉」50年・600号を超えて
2017-11-02
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2017年10月号(604号)
 
「泉」50年・600号を超えて
 

~「泉」とリカちゃんは同級生~
 

理事長 吉野恭治

 

 若葉学習会の学校報「泉」は2017年6月号で創刊以来600号となった。「先生、600号とはすごいですね」と今は通学生の祖母となられた方からお電話をいただいた。1年に12回の刊行だから、50年ということになる。いたずらに過去を愛でて、回想の想いに我が身を委ねるつもりはないが、書き続けた毎月の随想はおそらく500篇をこえるだろう。400字詰めの原稿用紙で3000枚を超える。それはやはり一つの感慨にはなるだろう。そろそろ「ペンを置く」時期も近づいていると最近自覚している。
 「泉」に書いた毎月の随想と、ほんの趣味程度の写真をまとめて写真・随想集「銀色の少年」という自費出版の本を「Ⅰ」「Ⅱ」として記念出版したが、今回「銀色の少年Ⅲ」をまとめさせていただいた。都合3回、そこに収録された随想は時の流れで50年にもわたるが、書いている随想の内容が、こと「教育」に関するものについては決して古いとは感じられない。当時問題点だとして努力すべき課題と思い書いたものについては、ほとんど現在も生き続けており、教育というテーマの解決や施策がいかに難しいものかを改めて感じる。
 「泉」第1号は1967年・昭和42年6月に発行されている。当時はまだ4ページで単色の、記事量の少ないものである。「泉」には長らく月例テストの成績優秀者が掲載された。掲載されると両親からの褒美として、その月のお小遣いが増額されるという家庭も多かった。第1号をめくると、そこに何十名かの生徒の名前が掲載されている。現在は65歳位になろうかという当時の生徒である。白根信隆君、小谷敏雄君、井上賢明君などは現在も年賀状のやり取りが続いている。当時中学2年だった高木秀雄君のお母さんからは、先日高島屋の地下で出会い声をかけていただいた。第1号に名前が掲載されている生徒たちは、一般的にはすでに定年退職をしており、その後の生き方はさまざまである。
 ただ私が自信をもって言ってもいいことがある。第1号に掲載されている何十名かの生徒たちの顔をすべて思い出せることである。それらの顔はすべて15歳である。現在街で出会っても互いにわからないのではないかと思う。第1号に「教えるもののこころ」と題して随想を載せている。その内容は米子南高校の美術室から出火して、本館が全焼したことを書いている。学校関係者の話によると「火の出た美術室は昨年まで鍵をかけたままであったが、生徒の要望で開放した。そこが生徒のたまり場になり、煙草を吸ったりする生徒のあることを知らなかった」と述べている。50年も前のことだからお許しを願いたいが、喫煙は当時も今も続く問題であり、「知らなかった」はないのではないかと思われる。紙面での関係者の答弁として、当時の教育長の「貴重な県民の財産を失った」というお詫びの談話があったと書いている。会見の後起立して、あの薄い髪のてっぺんをながめるシーンは50年も変わりはしない。いじめで自殺した生徒を、「いじめはなかった」と処理して、その後両親の告発を受け、その結果を受けていまさらに「いじめの事実があった」などとお詫びする会見は、つい最近のことだが、50年前よりずっと悪質になっているとさえ思える。
 当時ワープロもましてパソコンもなかった。すべてが手書きで、しかも編集は字数の行替わりを計算しなければならなくて、今にして思えば徒労のような作業だった。
 それから25年の後、平成4年(1992年)5月号が300号となる。この号の表紙はカラーだった。この号を記念して「高校受験時代に若葉に通学していた生徒」11名からアンケートをもらっている。若葉通学の頃の思い出というような内容だ。月例のテストで学年1位となった生徒に対してのアンケートだったが、東京工大や鳥大医学部、慶応大、九州大、京大などに加え東大が2名という、さすが高校受験時代にそれなりの成績を実現していたものは、その後も努力に怠りないことがわかってうれしかった。そのうち2名は鳥取県庁にいる。県庁には教え子が多いが、この2名には次の鳥取出張の日に会いに行きたいと思っている。
 その頃の私の随想に「てっちゃん大好き」というのがある。久保田徹君は若葉の生徒でもあったし、次男の友達でもあった。彼が大阪の名門ホテルである「リーガロイヤル」に勤務しているときに、私は宿泊した折、彼に会った。彼は最上階のカクテルラウンジで働いていた。仕事中なのでゆっくりとは話せなかった。しかし中学生の頃とは変わらない笑顔だった。フロアのチーフの方が挨拶に来られた。「久保田君の先生だそうですね。よく働いてくれます」と言われて、フルーツの盛り合わせが届いた。その久保田君が交通事故で死んだ。ひき逃げだった。まだ22歳だった。山陰放送にお勤めのお父様は以前から存じ上げていたが、1年後に「徹」という写真集を刊行され、お届けいただいた。その最後に友人たちのメッセージが載せられていた。「徹がたった22年で人生の幕をおろした。悲しかった。泣いた。とにかく泣いた。今の俺には徹にしてやれることはないが、徹が生きたかったであろう長い人生と、徹がかなえることができなかった夢をしょって、俺は徹に恥ずかしくないような人生を生きる」というのには泣かされた。あれから25年、てっちゃんが生きていれば50歳に近づいている。22歳ではなにひとつ納得のできない人生だったと思う。人生が22歳で終われば、私などは充実も形さえもない人生になる。最近教え子の訃報をよく聞く。その日は足が重くなる。私より短い人生に想いを馳せる。
 「泉」はその後25年の歳月を経て600号を迎えた。600号を記念して「記念号」とすることを考えなかった。
 そんなものを記念するより、変わらない姿勢で随想を書けばそれでいいと思えるようになっていた。そして「泉」に載せられる生徒紹介や卒業生の動向が、いつか思い出に変われば教師はそれで元気をもらえる。600号、そこに50年。600という校報をめくり返すとき、浮かび続けるあの日の生徒たちに心から感謝をすることで600号の記念としたい。
 
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