新! 学校報「泉」 アーカイブ
若葉学習会学校報「泉」 第705号 (2026年3月号) 今月の職員随想は鈴木先生
(世界遺産シリーズ) 空から見る吉野山の千本桜 奈良県・日本

学園ニュース

入試直前の
中学3年生クラス
がんばっています!
(学校NEWS 3月号)
♦️ 2月9日(月)は米子校舎の通学バスを雪のため運休しました。安全確保のためのやむを得ない処置でした。通学説明会などでもお伝えしております通り、生徒の皆さんの安全を最優先としバスの運休、休講等を実施する際には、ホームページでお知らせをいたします。ご確認をお願いいたします。
♦️ 2月14日(土)にエースパック未来中心(倉吉未来中心)にて「鳥取県進学フェア」が開催されました。高校1・2年生とその保護者を対象に県内の大学、短大、専門学校が体験学習や入学相談などの機会を提供するイベントです。本校理事長が部会長を務める鳥取県私立学校協会・専修学校・各種学校部会が主催し、鳥取県・教育委員会に後援をいただいています。今回は9校が出展し90名以上の生徒が参加しました。進路決定のためのいい体験ができたようです。
♦️ 2月7日から28日の毎週土曜日、高校入試直前対策「ファイナルプラクティス」を開講しています。重要事項チェックや入試過去問演習など毎週4時間超。夜には通常の塾の講義があるので半日勉強漬けです。中3生は合格発表日の歓喜に向けて最終奮闘中です。
君たち 僕たち (通学生紹介)

君たち
僕たち
米子校舎 高校1年
澤田 康太郎 さん
一番集中できるのは、笛を握って審判としてバスケのコートに立つ時です。ボールが弾む音で僕は、普段の康太郎からゲームの進行を管理するスーパー康太郎に切り替わります。判断を公平にできているか、同じ接触・同じ状況なら同じ判断で笛を吹いているか、プレーの流れの中で何が起きたのかをちゃんと理解できているか、審判としての責任を果たすために意識はゲームに集中しています。笛を吹くことは責任を感じると同時に、一番集中して充実を感じる時でもあります。
社会の授業で日本地図を机に広げると、伊能忠敬の足音が聞こえてきます。海沿いの荒い潮風、峠の深い雪、夜の静寂な暗闇など、何度もこえてきたことでしょう。「あなたが成し遂げた仕事は神業です。あなたは、どうやって日本中を歩くその足を手に入れたのですか。」もし忠敬に会うことができるのなら、僕はそう尋ねてみたいです。
通学電車でうっかり寝てしまっても、優しく起こしてくれる運転手さん。そんな小さな親切が僕はうれしいです。
社会の授業で日本地図を机に広げると、伊能忠敬の足音が聞こえてきます。海沿いの荒い潮風、峠の深い雪、夜の静寂な暗闇など、何度もこえてきたことでしょう。「あなたが成し遂げた仕事は神業です。あなたは、どうやって日本中を歩くその足を手に入れたのですか。」もし忠敬に会うことができるのなら、僕はそう尋ねてみたいです。
通学電車でうっかり寝てしまっても、優しく起こしてくれる運転手さん。そんな小さな親切が僕はうれしいです。
(担当 永見)
卒業生はいま

卒業生は今
株式会社Hakuhodo DY ONE
浦木 愛 さん
浦木 愛 さん
米東ダンス部が全国大会に初出場した時にセンターを務めていたのが部長の浦木さん。ダンスが大学選択(お茶の水女子大学で舞踊学を専攻)の根拠になり、今でも毎日の原動力になっています。浦木さんは有名広告代理店博報堂グループでインスタやグーグルなどのデジタル広告を担当。まさに時代のド真ん中にいます。「忙しくて怒濤のような毎日ですが楽しいです」と笑う浦木さん。
在学中から真面目で努力家で、それでいて明るくて好奇心旺盛で少しボケていて…当時の英語担当は「限りなく完璧に近い人間」と言っていました。一方浦木さんは若葉を「第二の我が家」だったと言います。「先生方は私を『生徒』というより『人間』として見てくださっていたと思います」とも。
「『好き』をベースに選択して行くと豊かな人生になります!」と言う浦木さん。圧倒的な努力が前提ですが、参考にしください。
今回は渋谷での取材でしたが、彼女は帰省の度に顔を見せてくれます。大都会で暮らしても、髪色が変わっても、 浦木愛はあの頃のままです。
在学中から真面目で努力家で、それでいて明るくて好奇心旺盛で少しボケていて…当時の英語担当は「限りなく完璧に近い人間」と言っていました。一方浦木さんは若葉を「第二の我が家」だったと言います。「先生方は私を『生徒』というより『人間』として見てくださっていたと思います」とも。
「『好き』をベースに選択して行くと豊かな人生になります!」と言う浦木さん。圧倒的な努力が前提ですが、参考にしください。
今回は渋谷での取材でしたが、彼女は帰省の度に顔を見せてくれます。大都会で暮らしても、髪色が変わっても、 浦木愛はあの頃のままです。
(担当 門脇)
職員随想

職員随想
受験の思い出
鈴木 眞也
小さい頃から、受験ばかりしてきている。
最初の受験は、まだ幼稚園か保育園に通っているときだった。父の仕事の関係で、広島県と鳥取県を行ったり来たりしていたのだが、そのときはたまたま鳥取市にいた。私本人にはあまり受験の意識はなく、まわりの同級生も受けるから、くらいの理由で、鳥取大学附属小学校を受験した。
受験勉強としては、塾とかには行かず、親が買ってきた問題集のたぐいを解いていただけのような気がする。スーパーやコンビニもない超がつくほどの田舎だったので、それしか方法がなかったのかもしれない。大した勉強もしなかったとは思うが、それでも学科試験には合格した。
問題はここからだ。今はどうなのか知らないが、この国立小の受験は二段階選抜で、二次試験は何と「くじ引き」だった。たくさんのピンポン玉が入った大きな箱が用意してあり、その箱の上部に開いた穴から、学科試験をパスした受験生たちが一つずつピンポン玉を引いて行く。
白いピンポン玉には番号が書いてあり、全員が引き終わったあとで、会場に合格者の番号を記した紙が張り出された。スーツを着た大人の男たちが数人がかりで張り出したその大きな紙には、私が手に握りしめたピンポン玉の番号は記載されていなかった。不合格である。子供心に、あまりにも理不尽な体験として刻まれている。
その結果、自宅から一番近い、と言っても小学生の足で軽く三十分以上はかかる場所にある鳥取市立の小学校に通うことになった。一学年一クラスしかないその小学校に四年生までは通ったが、そこでまた父の転勤だ。今度は広島県五日市町の、一学年八クラスもあるマンモス小学校に転校した。全校生徒数は約二千人。
山陽エリアに暮らしたことのある方ならご存じかと思うが、山陰と比べると、気候もドライだが人柄もかなりドライである。学校の規模が大きかったせいもあると思うが、クラスにははっきりとした「カースト」が存在し、鳥取からやってきた素性のよく分からない生徒には居場所がなかった。
カースト上位の生徒たちは、こぞって広島の難関私立中学を目指していた。いわゆる「お受験」である。彼らはそろって地元で有名な進学塾に通い、休憩時間などにその塾の話をした。私は彼らとは友達にならなかった(なれなかった)ので、同じクラスでたまたま話すようになった何とか君に誘われて、最寄りの路面電車の駅近くにある小さな個人塾に通い始めた。
入塾した当初こそ、その何とか君や他の生徒に学力で負けていたと思うが、その塾の先生との相性もよかったのか、成績はぐんぐん伸び、六年生になるころには、その塾に通う同学年の中でもトップクラスの成績を収めるようになっていた。何か特別な努力をした覚えはないのだが、ただ単純に難しい問題、特に算数の入試問題を解くのが楽しかったのを覚えている。
そんなこんなであっという間に受験期を迎え、私立の男子校を二校受験して、見事そのうちの一校に合格した。ちょうどイギリスとアルゼンチンがフォークランド諸島をめぐって戦争をしていた年で、それが社会の問題に取り上げられていた。
そんなこんなであっという間に受験期を迎え、私立の男子校を二校受験して、見事そのうちの一校に合格した。ちょうどイギリスとアルゼンチンがフォークランド諸島をめぐって戦争をしていた年で、それが社会の問題に取り上げられていた。
ところがである。ここでまたしても父の転勤。寮に入って自分だけ広島に残る選択肢もあったのだが、結局家族とともに米子市に引っ越し。それからこの塾(若葉)に通い始めるのだが、今回はここまで。高校・大学の受験についてはまたの機会に。


